2008年 11月 13日
東大寺で木材のことを想う
この大きな木はなんでしょう?
これは、元禄年間に再々建された東大寺大仏殿(金堂)に使用されていた柱です。
周囲が3.65mとありますから計算上は直径約1.2mあるのでしょうか。
樹種は杉です。
杉を見ると、なぜだか血が騒ぎます。ザワワ・・・^^
東大寺金堂は創建時(753年)、横幅86.1m(現在は57m)もあったと言われています。
でも、竣工後まもなく軒は下がり、乱れ、建物は歪み、支柱が必要な始末となったようです。
1180年、平重衡の南部焼き討ちにより、奈良時代創建時の東大寺は伽藍の大半を失いました。
鎌倉時代、復興の責任者に任ぜられたのが重源上人でした。
復興するには、膨大な経費と共に巨大建築の構造をどうするかという問題がありました。
再建にあたり従来の構造は採用できず、柱や梁などの長特大材の調達は困難だったのです。
金堂は、直径1.5mもの柱が数十本も必要です。
重源が復興させた鎌倉時代は日本の歴史の中でも屈指の建築ラッシュの時代です。
奈良時代に建てられた建物が築後約400年を過ぎ、老朽化が進んでいて、
根本的な大修理、または建て替えの時期を迎えていました。
このころ、近畿一円の山から直径1.5mの柱がとれる檜の大材はなくなっていました。
重源は周防国(すおうのくに・現山口県)で巨大な檜を調達します。
構造では、中国の建築技術を取り入れました。
この様式は、金堂(大仏殿)に使われたことから大仏様といわれます。
金堂以外にも南大門や法華堂礼堂などにも採用されています。
しかし、大仏様は豪壮すぎたのか日本には馴染まず、重源が亡くなると急速に衰退します。
(東大寺南大門の柱と貫↑)
ところが、その技術の中で、今日まで使われている技法があります。
それが貫(ぬき)の使用です。
貫とは、柱に穴をあけ、貫き通している部材です。
貫工法の出現により、太い柱や長押(なげし)などは必須の構造材ではなくなりました。
「日本の気候風土に合っている」と表現される、古い木造の建物の多くは貫構造が応用されたいます。
たとえば西日本で見られる古民家の土壁の中には貫があるのです。
ちなみにこの工法は、
同じ木を使った構法でも、現代の在来工法とはまったく異なった力学だそうです。
それを私は、便宜上、「伝統構法」と呼ぶことにしています。
建築ラッシュの奈良時代。その400年後に修復された鎌倉時代。
さらに400年後が西暦1600年前後、桃山から江戸時代初期です。
この時期に、現大仏殿(金堂)が再々建されています。
それから400年後が2000年ですから、現代となります。
昭和にされた東大寺の大修復は、そんな歴史的なサイクルの中にあるようです。