2009年 5月 03日
懐かしいと感じる里山の風景を考える。
「ISIS編集学校」に入門するまでの26日間を二度草稿したのですが巧くいきません。
一度目は「保存」を、二度目は「公開」のアイコンをクリックしたものの、
二度ともエラーとなり、データは消滅してしまいました。凹みます・・・
これは、アップするな、とのメッセージかもしれませんねぇ・・・(笑)
というわけで、また改めてこの話題は書くことにして、お題を変えて気を取り直していきます。^^
ショコリンさんから、前回記事にこんなコメントをいただきました。
「懐かしいと感じる風景は植生の分布に関係していますよね。
自分の生まれ育った風景と、同じ植物からなる風景だとものすごく懐かしさを感じてしまいます。
私の場合はブナの木の林ですね。
でも、都会で生まれ育った方にはあてはまらないかな・・・??」
たしかに、都会で生まれ育った方ってどうなのでしょう。
私なんて生まれも育ちも緑多き田舎でしたので想像がつきません。
たとえ都会生まれ都会育ちであっても、白川郷の合掌造りの民家群を見て
ノスタルジーを感じてほしいなぁ、と願うばかり。^^
それはそうと、
「懐かしいと感じる風景は植生の分布に関係していますよね。」
との冒頭の一文、いいですね~♪
つい最近私も、同じようなことを考えた場所があるのです。
そこは九州国立博物館(以後九国と表示)です。
ガラス一面に、裏山が映り込んでいるのがご覧いただけると思います。
じつは松岡正剛氏の独演会があった日、昨年末よりご縁ができた
財団の広崎専務と昼食をご一緒させていただいたときのこと、
この裏山をどのようにすればよいか長考されている、とお聞きしたのでした。
なるほど、太宰府天満宮から九国に歩いてくると、
真っ先に目に入ってくるのが写真の光景となります。
様々な照葉樹を中心とした雑木に竹。さらに植林された杉や檜もあります。
藤の花なども咲いていて、山笑う季節ということもあり、それなりに賑やかで、
「植生の分布」では九州らしい里山と言ってよいのではないか、と思いました。
でも・・・たしかに美しいとまでは感じられない・・・
なぜでしょう。それは「手入れ」がないからではないか、と推測されます。
森は自然のままのほうが美しいんだ、とイメージされている方も多いと思いますが、
決してそうではありません。
この国の手入れの歴史は縄文まで遡ることができるといいます。
私は手入れをすることで、九州らしいこの里山が美しくなってほしなぁ、と思ったのでした。
それも、ただ美しくなればいい、というわけではありません。
そこにある木々は天然のものもあれば、植えられたものもあるはずです。
薪炭林を目論んだものの、文明化により放置されたところだってあるかもしれない。
なんてことない雑木林の里山に見えるのは私が無知なだけで、
そこには「人が関わったからこそ」といえる姿があるのだと思います。
どうして今の里山の姿となったのか、その経緯や歴史も合わせて知りたいなぁ、と感じました。
そのようなことを探りながら、さらに美しく、
「九州らしい」里山の風景となるように「手入れ」ができないのだろうか・・・
やってみたいテーマですね♪
この建物は、福岡県出身の大御所建築家である
菊竹清訓築設計事務所(+久米設計)の設計なのだそうです。
設計された菊竹先生のイメージの中には、どんな森の姿があったのでしょう。
それは生まれ育った筑後川下流域、久留米市近郊の里山風景だったのでしょうか。。。
投稿がうまくいかなかったのですね?
どうしたのでしょう・・・。データが消滅してしまうなんて??
九州国立博物館、建物の形も素敵ですが、景色が映り込んでいるので、そこにも山があるような感覚になりますね。素敵なデザインです。
この裏山ももうちょっと手を加えれば、もっと美しく映えることとおもいます。
杉岡さま。
ひとつ、気になることがあります。
私の家の近くにも里山があり、
里山保存会なるものがあるようで盛んに活動しています。
里山の林の中に、ツリーハウスを作ったり、
シーソーや木登りが出来るようにのぼり棒をつけたり。
たくさんの人が山に入って、自然と触れ合うのは必要だし、素敵なことです。
でも、たくさんの人が山に入るようになって
地面がかたく、踏み固められてしまったように感じます。
以前は、落ち葉がフカフカでもっと歩きにくいくらい柔らかな土でした。
大丈夫かな。。。と私はちょっと心配しております。
一極集中ではなくて、たくさん、素敵な里山が増えなくてはいけないのだと切に願います。
深山さま、
この記事の投稿はうまくいっているので、
今アップしない方がよいのだろうと解釈しています(笑)
裏山にどう手を入れるか、まずは調査してみたいですね~^^
九国では今、チベット仏教展が開催されています。
日本で見る仏像とは趣が異なっていて、
見学していて具合が悪くなる方もいらっしゃるのだとか・・・@@
ショコリンさん、
いつもストレートで直感的なコメントありがとうございます。
私も林学は初心者なので、こんな質問は嬉しいです。
>でも、たくさんの人が山に入るようになって
>地面がかたく、踏み固められてしまったように感じます。
詳しくは、専門の方にお尋ねしてみようと思います。
たしかに、縄文杉の回りの土が踏み固められて・・・
とかいうニュースも耳にしたことありますね。
せっかくのご質問なので
今の私の考えを少々直感にて・・・^^
まず、地面が固く踏み固められることについて、どうなのでしょう。
問題はないのか、その程度であればOKか、などは現場判断だと思います。
正直わかりません(笑) たしかに、
屋久島などでは縄文杉が弱っている、と聞きますし、
同様の問題で遊歩道の整備などが叫ばれていたりもしていますから、
そうお感じになる気持もよく理解できます。
要は・・・その森に何が生えているか、
ということを考えればよいのではないでしょうか。
そこが国定公園であったり、
そこに天然記念物が生えていたり、
と、森そのものを保存しなくてはならないのであれば、
熟考する必要があると思います。
ただし、普通の里山の場合であれば、考え方は変わります。
もともと里山は、守る山ではなく、資源として使う山、であったからです。
仮に今生えている木材が寿命となれば、資源として使用し、
そしてまた森づくりをして・・・と、数十年サイクルでの循環を
考えていけばよいのだろう、と思うのです。
現在の森林の荒廃は、いろんな問題を孕んでいますが、
その根っこに何があるかといえば、私は「無関心」だと思います。
なんでも、お近くの里山保存会のみなさんは盛んに活動されているご様子。
私は素晴らしい活動をなさっていると感じます。
マザーテレサは愛の反対を憎しみではなく無関心と説きました。
人々の無関心によって森林が荒廃していると考えられる現代だからこそ、
どんどん、森に、山に、関わってほしいと、私は願っています。
答えになっていないかもしれませんが、まずは関わってみて、
その森がどうあるべきかは、手を入れながら考えれば良いように思います。
今回のご質問のようなことを考えながら、方針を変更していくのです。
自然界は、なにが正解なのかよくわかりませんし・・・^^
でもどうしても、お近くの里山保全に違和感を覚えるのであれば、
それは違った意味で興味があります。
ショコリンさんの直感にはいつも驚かされてばかりなので・・・^^
なるほど!です!!
里山が、まるで公園のようになってきて、
私の秘密の場所。。。感が薄れ寂しかったのかも知れません。
確かに、里山、というのは
人の住む地域と、深い山間部の、その緩やかな狭間に位置しますね。
実は子供のころ、山を買って、絶対に人間は入れないぞ!!というのが私の夢でした。
でも実はもっと自然って懐が広いものなのかも知れませんね。
ショコリンさん、
>実は子供のころ、山を買って、絶対に人間は入れないぞ!!というのが私の夢でした。
そんな夢があったのですか~^^
こちらはすぐに実現できますよ。
私たちの方では値段がつかないような山林とても多いので。
山林オーナーになりませんか?
そして山小屋建てましょう(笑)
私も都会育ちですが、
事実、自然を見ると癒されます。
人間の深い部分には自然と一体化したい、
いやそもそも人間自体が自然の一部では?
そんな気がしていています。。。
いつも杉岡さんのブログを拝見すると
「原点回帰」させていただけます。
ありがとうございます。
>マザーテレサは愛の反対を憎しみではなく無関心と説きました。
そうですよね。
「無関心」「無視」が、愛の対極にあると私も思います。
憎しみや嫌悪感は「相手の存在」を認めた上での感情ですから。
自分の存在を認めてもらえないことが一番ツライですよね。
里山のお話、興味深かったです。
>自然界は、なにが正解なのかよくわかりませんし・・・^^
そうですよねー
擬人化すると人間主導みたいになっちゃいますが、
森(自然?)との付き合いも、配偶者や子どもとの関係みたいに
お互いに影響しあう・協力する・共存する部分と
それぞれが相手の個を尊重して踏み込まない・手を触れない部分と
両方が必要なのかなぁと思ったりしています。
大事なことを考えるきっかけをありがとうございました!
林さま、
いつもありがとうございます。^^
>いやそもそも人間自体が自然の一部では?
ほんとにそうですよね。
私たちが生まれた時、細胞は約3兆個と言われます。
成人した姿では60兆個をこえているとも。
その細胞は、私たちが寝ている間も休むことなく、
常に活動していているわけですから、
人間そのものが自然の一部であると、共感します。
都会育ちの林さんのコメント大変嬉しいものでした。感謝します。
たにむらさま、
本文後のコメントで、このように会話ができるということに
今回、とても感動しています。
コメント欄の方が本文より情報量が多くなるなんて(笑)
少し勿体ない気もしていますけど。^^
>擬人化すると人間主導みたいになっちゃいますが、
>森(自然?)との付き合いも、配偶者や子どもとの関係みたいに
>お互いに影響しあう・協力する・共存する部分と
>それぞれが相手の個を尊重して踏み込まない・手を触れない部分と
>両方が必要なのかなぁと思ったりしています。
なるほど・・・
ハッとさせられました。
そんな風にお伝えすればわかりやすいのかもしれませんね。
出産、幼児、小児、思春、青春・・・と
人間の成長過程とリンクさせながら森のあるべき姿を語ってみるのも
面白いかもしれないな、と思いました。
発見的なコメントありがとうございました。
>>懐かしいと感じる風景は植生の分布に関係していますよね。
小さい時って五感を通して記憶しているので、
自然は肌触りとか匂いとかを感じることができるからでしょうね(*´▽`*)
取次さま、
いつもコメントありがとうございます♪
>小さい時って五感を通して記憶しているので、
>自然は肌触りとか匂いとかを感じることができるからでしょうね(*´▽`*)
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚で五感。
たしかに、子どものときからこれらの情報は、
入れようとしなくとも自然に入ってくるものですよね。
それにしても、
植生の分布って、どこまで意識しているものなのでしょう・・・
ちなみに、山の近くに住む私の場合でさえ、今の仕事をし始めてから、
(おそらく十数年くらい前から)意識し始めたような気がしています。
ショコリンさんってすごいな~と思います。
凄い綺麗な風景ですね♪
僕も自然が大好きです!!!
川手さん
コメントありがとうございます。
自然というと人の手の入っていないもの、
という印象をお持ちの方も多いことと思いますが、
じつは我々、人そのものも自然なんですよね。
眠っていても細胞は活動しているし、
体内には無数の微生物が住んでいる。^^
手入れをしながら綺麗な風景になるのも
素敵なことだと思うのです。