2009年 5月 22日
鞆(とも)の浦の景観と太田家住宅
(鞆の浦 太田家住宅前の露地にて)
一週間前になりますが、広島県福山市へ行ってきました。
日本民家再生リサイクル協会九州地区の「重文民家をめぐる旅」ということで
一日目と二日目の午前中は「崖の上のポニョ」でも知られる鞆の浦(とものうら)を中心に見学しました。
二日目の午後は、重要文化財の「阿伏兎(あぶと)観音」、
国宝「明王院」、さらに福山市美術館にて「北大路魯山人展」と欲張りすぎた気もします。^^
案内役は、このブログでもおなじみの「庭譚 橋本善次郎」にお願いしました。
今日は一日目、鞆の浦の国指定重要文化財民家「太田家住宅」を写真中心にご紹介します。
(以下、WEBページ「日本の旅」福山市より編集)
鞆の浦は古代から瀬戸内海航路の要所として発展してきました。
室町時代には足利尊氏が後醍醐天皇に対しここで挙兵し、そして織田信長に追い出され、
毛利家の庇護を受けた足利義昭が居住。さらに幕末には「いろは丸事件」発生に伴い、
一時的に坂本龍馬達が立ち寄るなど、歴史的な人物とゆかりの大きい場所です。
特に景観の保存がなされているわけではありませんが、奇跡的に幕末~昭和初期の街並みが
広範囲にわたって、そのまま残っています。鞆街並み保存研修会の調べでは、江戸期の建物が
80棟、明治期が91棟、大正・昭和期が301棟あり、このうち保存ずべきは450棟もあるのだとか。
(参考編集終わり)
そんな鞆の浦に今問題が起こっています。
広島県と福山市は道路交通が不便な状況にある鞆地区の改善を行うべく、
道路整備の一環として交通渋滞港湾の一部を埋め立て、架橋する計画を推進中。
一方、反対の声も根強く訴訟も提起されています。
住民は賛成・反対両方の声がありましたが、鞆の浦で出会った方々は、
とても熱く「反対」を主張されている方々ばかりでした。
反対側は、渋滞を解消するために「トンネルをつくる」という代替案を提出しているそうです。
その案は、景観を壊さず、工期も短く、費用も半分程度、理想的に思いました。
しかしながら、行政サイドの反応は良くないらしいのです。
難しい問題ではありますが、港町としての古い街並みが特徴である以上、
安易な架橋による風景破壊は魅力を激減させることになり、好ましいこととはいえないと思います。
(土間の市松模様は敷き瓦と漆喰で表現しています。保命酒の原料を展示。)
前置きが長くなりましたが、ここ太田家住宅は国指定重要文化財。
幕末に長州派の公卿だった三条実美ら7人の公卿が、京都で長州藩が薩摩藩・会津藩・
徳川慶喜連合軍と戦って破れた、禁門の変によって西に追われた「七卿落ち」のときに滞在した住宅で、
鞆の特産品である保命酒を竹の葉と表現して称えた歌を詠んでいます。
「世にならす 鞆の港の竹の葉を 斯(か)くて 嘗(な)むるも 珍しの世や」
主屋の回りをぐるりと蔵が囲んでいます。腰壁の平瓦にサイコロの目の飾りがありました。^^
蔵の中に入ると、そこは美術館のような空間が・・・ちなみに光は東陽です。
柱の竪の線と、化粧貫(けしょうぬき)の横の線でつくられた格子模様の漆喰壁。
このディテイルは「ザ・日本」という感じですね。凛としています。
上の写真の階段を上ると、こんな松の梁が。大きさ、曲がり、とド迫力でした。^^
この時点ですでに2時間近くが過ぎていて・・・ようやく主屋(母屋)へ。
主屋は茶室ばかりでした。床の間のある茶室、座敷がいったい何部屋あったのか。。。
7部屋しか記録をとっていません。それはさておき、
この写真は、「一畳台目」という1.75畳しかない茶室です。
島根の菅田庵(重要文化財・1792年~中板隅炉・本勝手・上座床・不昧好み)と同じ間取りでした。
最後に、これはなんだと思われますか?
正解は・・・トイレの音消しです。手水にもなります。^^おしゃれですね~