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2009年 4月 28日

「パトリオティズム=愛郷心」と「原」風景

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先週の4月21日(火)、松岡正剛氏の「ISIS編集学校」に入門しました。
というのも、4月18日(土)九州国立博物館で開催された「松岡正剛独演会」を聴講し震撼したからです。
それはまさに私が知りたいと渇望していた話の数々でした。
日本を考えるとき、九州が起点となる。」という言葉に端を発し、高千穂神楽の動画で始まりました。
それからはあっという間の3時間。アニミズム、神話といった歴史の結び目を切り口に、
古代から現代までの日本を民俗学的にひも解いていくような内容でした。
 
これから日本はどこへゆくのかを語る前の・・・
 
明治に神仏が分離され、廃仏毀釈が起こり、
「パトリオティズム=愛郷心」と「ナショナリズム=愛国心」
とが同化されてしまうという悲劇が起こった、
 
という下りには、腹の底から共感いたしました。
「む~らの鎮守のか~みさまの~」で始まる童謡「村祭り」を
「ナショナリズム=愛国心」と解釈するのは納得がいかなかった、
それは、「パトリオティズム=愛郷心」であるとしか思えなかったからです。
 
先月末他界された「もくたろ」の編集長入澤義時さんは、同じようなことを
著書「東北からの思考」の47~48頁でこう述べています。
 
「この風景を眺めて、森さんがいわれたように、僕らは単純に美しいなあとか、
懐かしいなあとかいってしまいます。(中略)
 風景の中でそれぞれが生きているということは、私たちがいうような単純な姿ではない。
 
 確かに、現実の大変さとか、生活の中に入っていったらドロドロしているとか、
それは都市・都会のなかにだってあることですけれど、ただ私たちが見失って
はいけないのは、こういう風景が美しいとか懐かしいとかホッとするとか、
「原」風景ということをどうしてもいいたくなるということ自体なんです。
それは、大切ことだなって、そういう言葉を失った瞬間に根っこを失うというか、
ダメなんですよ。都市・都会を考えるときにだって、それを見失っちゃダメなんです。」
  
生活感がなくてもいい、なんの繋がりがなくてもいい、無責任でもいい、
日本昔話に出てきそうな「日本の原風景」を呼べるような景色を
単純に美しいな、懐かしいな、と言える感性こそが大切なのだと。
そういった共通の美意識の根源に私たちは存在しているのではないか、と感じます。
それを松岡正剛氏は「パトリオティズム=愛郷心」という言葉で表現された。
これには本当に感動しました。
森や山になんとなく抱く正の感情もこの「愛郷心」だと思いたいですね(笑)
 
などなど、知ったようなことを書いていますが、じつは一月前まで
私は松岡正剛氏を存じておりませんでした。
それでも、今回の独演会を聞き、「ISIS編集学校」に入門するまでの26日間は、
おどろくようなシンクロニシティの連続がありました。
次回は、そのあたりを書いてみたいと思います。

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