アーカイブ 「木造建築の味覚」

2008年 11月 19日

職人がつくる木の家ネット 総会

カテゴリー 木造建築の味覚

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先週末は、職人がつくる木の家ネットの総会で埼玉県川越市に行っていました。

新入会員の私は初の総会への参加でした。(^^;

以前から、このネットワークのHPはずっと読んできました。

入会審査が厳しく、熱い方ばかり。

大工さんの比率が高いという特色もあります。

森林のレポート、伝統構法の記事など、充実したコンテンツが魅力です。

秋田のモクネット事業協同組合の加藤長光さん、

徳島のTSウッド和田善行さんといったお名前は知っていても、

これまでなかなかお会いできなかった方とようやくお話しすることができました。

(業界ではとても有名な方々なのですよ。^^)

それから、大工さんであるにもかかわらず水中貯木乾燥という大技

(私の中では、木材乾燥で最も惹かれている技術)

に取り組んでおられる滋賀県大津市の宮内寿和さんにお話を

お伺いしたいな・・・と思っていたのですけれど、、、

ちょうど前の週の情熱大陸(11月9日放送)で特集されたばかりのタイミング。

今回はゆっくりお話を聞かせていただくことができませんでした。(残念!)

とはいえ、2週間後神戸で再会できるようです。

伝統系木造住宅の実大振動実験があり、

その建物をつくるのにかかわっていらっしゃるとのことでした。

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川越の町並みはすばらしく、スケールも大きくて、

とても賑わっていていましたけれど、

点在する古い洋館に心魅かれました。

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電飾で埋められたこの建物も、古い木造の洋館でした。

川越ならでは・・・ですね~

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2008年 11月 13日

東大寺で木材のことを想う

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この大きな木はなんでしょう?

 

これは、元禄年間に再々建された東大寺大仏殿(金堂)に使用されていた柱です。

周囲が3.65mとありますから計算上は直径約1.2mあるのでしょうか。

樹種は杉です。

杉を見ると、なぜだか血が騒ぎます。ザワワ・・・^^

 


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東大寺金堂は創建時(753年)、横幅86.1m(現在は57m)もあったと言われています。

でも、竣工後まもなく軒は下がり、乱れ、建物は歪み、支柱が必要な始末となったようです。

1180年、平重衡の南部焼き討ちにより、奈良時代創建時の東大寺は伽藍の大半を失いました。

鎌倉時代、復興の責任者に任ぜられたのが重源上人でした。

復興するには、膨大な経費と共に巨大建築の構造をどうするかという問題がありました。

再建にあたり従来の構造は採用できず、柱や梁などの長特大材の調達は困難だったのです。

金堂は、直径1.5mもの柱が数十本も必要です。


 


重源が復興させた鎌倉時代は日本の歴史の中でも屈指の建築ラッシュの時代です。

奈良時代に建てられた建物が築後約400年を過ぎ、老朽化が進んでいて、

根本的な大修理、または建て替えの時期を迎えていました。

このころ、近畿一円の山から直径1.5mの柱がとれる檜の大材はなくなっていました。

重源は周防国(すおうのくに・現山口県)で巨大な檜を調達します。

構造では、中国の建築技術を取り入れました。

この様式は、金堂(大仏殿)に使われたことから大仏様といわれます。

金堂以外にも南大門や法華堂礼堂などにも採用されています。

しかし、大仏様は豪壮すぎたのか日本には馴染まず、重源が亡くなると急速に衰退します。


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(東大寺南大門の柱と貫↑)

 
ところが、その技術の中で、今日まで使われている技法があります。

それが貫(ぬき)の使用です。

貫とは、柱に穴をあけ、貫き通している部材です。

貫工法の出現により、太い柱や長押(なげし)などは必須の構造材ではなくなりました。

「日本の気候風土に合っている」と表現される、古い木造の建物の多くは貫構造が応用されたいます。

たとえば西日本で見られる古民家の土壁の中には貫があるのです。

ちなみにこの工法は、

同じ木を使った構法でも、現代の在来工法とはまったく異なった力学だそうです。

それを私は、便宜上、「伝統構法」と呼ぶことにしています。


 

建築ラッシュの奈良時代。その400年後に修復された鎌倉時代。

さらに400年後が西暦1600年前後、桃山から江戸時代初期です。

この時期に、現大仏殿(金堂)が再々建されています。

 

それから400年後が2000年ですから、現代となります。

昭和にされた東大寺の大修復は、そんな歴史的なサイクルの中にあるようです。

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2008年 11月 06日

正倉院を見て笑う

カテゴリー 木造建築の味覚

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先週末、奈良に行ってきました。

日本民家再生リサイクル協会の「民家フォーラム」が、

奈良県宇陀市松山地区で開催されたからです。

朝8時30分に名門大洋フェリー大阪南港に着き、

時間があったため正倉院に行くことにしました。

ちなみに正倉院は、年に一度「正倉院展」をやっているこの時期以外は

平日しか見られないそうです。

 

ともかく、視界に入ってきた瞬間、笑い声が出てしまいました。

「デ・ヘ・ヘ・ヘ・・・」

スケール感が創造とは全く違います。

地面から床まで2.7mもあるそうです。

それに、国宝建築特有の雰囲気。

穢れのない、辺りは澄み切ったような清々しさ。

たまらんです。凛としてます。

 

なぜか私は美しい倉が大好きです。

思わず見とれてしまいます。

 

倉は、今日の日本における木造建築の原型とも言えます。

伊勢神宮をはじめ、神社にはその形態を色濃く残しています。

正倉院は、三角形(正確には六角形)をログハウスのように積み上げた校倉(あぜくら)です。

神明造(しんめいづくり)の伊勢神宮も、以前は校倉ではなかったか、という説があります。

 

正倉院をよく観察しますと、向って右の北倉(ほくそう)と左の南倉(なんそう)、

そして真ん中の中倉(ちゅうそう)の三つの箱が連なっていることがわかります。

北倉と南倉は、校倉(ログハウスのような組み方)。中倉だけが板倉(いたくら)になっています。

板倉とは、柱があって、柱に溝を彫り、そこに板を落とし込んだ構造です。

それを発見し、思わず嬉しくなりました。

私の師である安藤邦廣先生が提案する板倉構法ですからね(^^

 

結界があって、近くに寄れませんでしたが、それでも嬉しいひとときでした。

 
 

関連記事・・・ちょうど2年前に訪ねた法隆寺の土蔵の記事

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2008年 10月 28日

近代建築・巨匠の「終の棲家」はなぜ「茅葺民家」なのか。

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一昨日、日本民家再生リサイクル協会の九州民家塾で、池田武邦先生の自邸「邦久庵」にお邪魔してきました。

池田先生は、日本設計の創始者。代表作は、霞が関ビル(超高層)、筑波学術研究都市、長崎オランダ村ハウステンボスなど。まさに、近代建築の先頭を歩いてこられた巨匠です。

そんな先生の終の棲家は、伝統木造の「茅葺屋根」。

「なぜこの形になったのか」話していただきました。

今日は、その内容をシェアしたいと思います。

 

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なぜこの形になったのか?

それは、一言で言うならば「感性を取り戻す」ため。

この家にあるのは、

波の音、鳥の鳴き声、虫の声。

それから風の音、塩の満ち引き、月齢。

 

若かりしときは、近代化すれば、合理化していけば、

世の中は良くなり、豊かになり、人間にとっていいことばかりだ、

と思ってやってきた。

ところが、その成長には限界があることを公害問題で知る。

たとえばDDT。

スイスの科学者パウル・ヘルマン・ミュラーはDDTにてノーベル賞を受賞した。

その後、レイチェル・カーソン「沈黙の春」で農薬問題が告発されDDTは使用禁止となる。

近代化の世の中は、急激に上昇カーブを描き、そしてダメになる。

ローマクラブの「成長の限界」は、それを示唆している。

 

近代文明を享受すると、感性が鈍る。

そして、身の危険を感じなくなってしまう。

 

文明とは、普遍・優劣・創造・欲望・人間主体なもの。

文化とは、固有・対等・伝承・知足・自然主体なもの。

文明とは遠心力。文化とは求心力。

 

文明の良し悪しを心得ながら、今は文化を目覚めさせるとき。

文化の掘り起こしを今やらなければ、伝承が途切れてしまう。

 

足るを知ると同時に、精神的なものにウェイトを置く世の中にしたい。

 

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ちなみに文化と文明の定義を司馬遼太郎は「アメリカ素描」こう表現しています。

「文明は

『たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの』

をさすのに対し、

文化はむしろ不合理なものであり、

特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、

他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。」

(2年半前の拙ブログ「文化と文明の振り子」に関連記事あり。)




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