アーカイブ 「「山の文化」のルーツを探る」

2015年 2月 25日

近代林業の発祥の地 川上村を訪ねる


昨年の3月、吉野林業の本拠地、川上村を訪ねたときの動画です。
近代林業の祖、土倉庄三郎翁と、時空を超えてお会いしたような感覚を覚えました。
川上村は、日本の近代化に大きな役割を担った時期があります。
ぜひ皆さんにも知ってほしい地です。
http://yoshinoringyo.jp/
のエピソード2動画(14分32秒)をご覧ください。

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2010年 6月 29日

世界遺産に見出した杉の役割


 
束石の上に杉の柱が並び、外壁のそのほとんどを杉皮が覆う。
庇(ひさし)屋根には、杉を薄く裂いたコケラ板がモザイク状に葺かれ、
三角の妻壁には、杉板が張られている。
先週末に出合った、この杉だらけの民家、さて、どこだと思いますか?
 

 
答えは、白川郷(岐阜県大野郡白川村)と共に合掌造り民家群として
世界遺産に登録されている五箇山(富山県南砺市)の「菅沼集落」。 
 
それにしても、この杉だらけの民家を見つけたときは胸が騒ぎました。
北陸地方は、広葉樹に重きを置く文化とばかり思っていたからです。
これまで、福井県から九州に移築されてきた民家を数棟見る機会がありましたが、
その多くは、クリやケヤキといった広葉樹が柱や梁に使われていました。
その土地の気候風土に適した素材と形と技術の結晶が民家である、とすると
五箇山のような豪雪地帯には、冬季の雪の加重に耐えるよう、
硬くて、しならない広葉樹を構造材に使ったほうが理に適っています。
事実、この日見学した、現存する合掌造り民家では最大規模の「岩瀬家住宅
(国指定重要文化財)の柱や梁の構造材は、総ケヤキ造り↓でした。
 

 
ところがこの岩瀬家住宅も、外壁に目を向けると、そこにはやはり杉の活躍がありました。
外壁だけでなく、庇(ひさし)にも屋根材として杉板が使われているのです。(↓)
 

 
相倉(あいのくら)地区の民俗館にある資料で、
五箇山の木材に関してこのような記述をみつけました。
 (抜粋はじめ)
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 古くから森林資源が豊かな五箇山は、文禄三年(1594)豊臣秀吉が伏見城を
築くのに五箇山の木材が使用されたことが「加越能古文書」に記されています。
 また江戸時代、加賀藩は木材の利用が拡がるのにつれ、用材の確保と調達の
ため「御林」といわれる藩有林をつくり「七木(しちぼく)の制」を設け、許可なく木を
伐ることを禁じ、村人に守らせて管理していました。
 藩の御用木「七木」は種類が決められていて、その内、五箇山では檜(ひのき)、
槻(けやき)、杉、栗の四種が御用木として明らかにされています。
 
*************************************************************
(抜粋終わり)
 
ケヤキ、クリという広葉樹と共に、杉、ヒノキといった針葉樹も重用されていたことがわかります。
その価値観は、風景にも如実に現れていて、先人たちの知恵に心動かされました。
 

(菅沼集落と共に世界遺産に登録されている相倉(あいのくら)集落)
 
合掌造りの民家群を取り囲むように、杉林が覆っているのがおわかりでしょうか?
これは、雪持林(ゆきもちりん)と呼ばれ、雪崩を止める役割を担っているそうです。
つまり、この地域において杉は、樹木として集落を覆うことで風雪から守り、
また、木材として家の外壁を覆うことで風雨から守るという役割を果たしているのです。
じつに奥深い、木の文化を垣間見ることが出来ました。
 
すっかり杉の文化ネタで暴走してしまいましたが、
今回の五箇山行きは、「(社)日本茅葺き文化協会」の設立総会、
および設立記念フォーラムに参加するため。
師である安藤邦廣教授(筑波大)が代表理事で、微力ながら私も理事として名を連ねております。
 

 
この日は、老若男女を問わず、170名余りの人が集まり大盛況。
とはいえ、今年2月に設立したばかりのこの会の会員は現在70名程。
茅葺きの文化と技術の継承と振興を図る、志の団体ですが、
国などの予算もなく、当面は啓発と会員の拡大がテーマ。
会員数200名をまずは目標としています。
趣旨にご賛同いただける方は、ぜひご協力くださいませ。
年会費5千円で、年4回会報が送られてきます。
(全国の茅葺き職人たちとも繋がっております。)
 
入会のご案内はこちら↓
http://www.kayabun.or.jp/nyuukai.html

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2010年 3月 27日

樹齢2000年を超える台湾ヒノキ

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(杉が植林され、異国だと感じさせない風景)
 
3月20日から台湾の阿里山国家風景区 (ありさんこっかふうけいく)に行っていました。
そこは、2000年を超える桧の巨木が群生する地。
でも簡単にたどり着くことはできません。
福岡空港から台北まで飛行機で2時間。
そこからさらに阿里山まで車で6時間半。
宿舎に着いたのは家を出て13時間が過ぎた頃でした。
興奮していたのか、翌朝は4時に起床(笑)
今日は写真を見ていただきたいと思います。
 
(以下、wikipedia より編集)
最高峰は大塔山の2663m。面積は約32700ヘクタールで、
その内1400ヘクタールが「阿里山国家森林遊楽区」に指定されており、
日の出・夕霞・雲海・鉄道・神木の「五大奇観」が有名である。
 
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(今は運行していない森林鉄道。この木製の汽車に乗ってみたかった・・)
 
戦前の日本統治下、1934年に隣接する玉山とともに、
新高阿里山国立公園として日本の国立公園に指定されていた。
阿里山の森林が初めて日本人に発見されたのは1900年のことで、
1904年から林学博士である琴山河合により調査が始められた。
 
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(樹齢800年)

植物は、熱帯・暖帯・温帯の植物が見られる。
1800m以上になると樹齢1000年を超えるタイワンヒノキ (中国語: 紅檜) が多く自生しており、
靖国神社の神門や橿原神宮の神門と外拝殿、東大寺大仏殿の垂木など、
日本の多くの神社仏閣に阿里山のタイワンヒノキが使われている。
さらに明治神宮の一代目大鳥居にも使われていたが、1966年7月22日の落雷で破損し、
現在大宮氷川神社の二の鳥居として第二のお役に立っている。
 
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(樹齢1500年!)
 
樹齢3000年を誇る初代「阿里山神木」は腐敗が進み、1998年6月29日に切り倒された。
そこで2006年、2万5千人の投票により「二代目神木」が選考され、
「光武檜」↓が二代目「阿里山香林神木」となった。
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(樹齢なんと2300年。樹高45m。私が米粒のように見えます。)
 
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この↑ 2本の木は、左が「台湾杉」で右が「紅檜」。
このように一対になった杉は通常「夫婦杉」と呼ばれますが、
これは杉と桧なので、なんと呼べばよいのでしょう。
でもある意味、本当の夫婦のようでもあります。
 
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別アングルからこの杉を見ますと、左に桜、右に松が、助さん格さんみたいにそびえていました。
 
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ちょうどこの時期、阿里山は花ざかり↑↓。
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森林鉄路「阿里山駅」にて、紅檜↓の樹形を見る。
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(番外編)
阿里山への移動中に立ち寄った高速道路PAのレストランにて。
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近づいてきた子どもが、木のベンチでおもむろにゴロン・・
彼らは、気持ちの良いところを知っている。

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2009年 6月 30日

山に手を入れる。(高千穂編)

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先週末、高千穂へ行ってきました。
目的は、山の間伐が終了したということで、その確認だったのですが、
まず森林組合にお邪魔し、その後せっかくなので天岩戸神社を参拝してきました。
ここは来る度に、実に清々しい気持ちになります。
 
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ここ高千穂は、天岩戸伝承の残る神話の舞台です。
松岡正剛著「神仏たちの秘密」より、おさらいしてみたいと思います。^^
 
(抜粋はじめ)
 
 日本の神はイザナギ・イザナミがアダムとイブだとすると、
その次はアマテラスとスサノオの姉弟神が中心となっていきます。
 二人の神は、最初は高天原パンテオンにいましたが、
和魂を象徴するアマテラスと荒魂を象徴するスサノオはしょっちゅう激突します。
一度はスサノオは「乱暴はしません」というウケヒ(誓い)をするんですが、
その後も乱暴をくりかえし、とうとうアマテラスが岩戸に籠ってしまうという大事件がおこる。
日本最初の「引きこもり」です(笑)。太陽を司るアマテラスが天岩戸に籠ってしまったので、
世界が暗闇になってしまった。日蝕神話だともいわれています。
 そこでアマテラスを岩戸から引き出すために、神々が天安河でミーティングを開き、
アメノウズメがストリップをした。それをアマテラスが覗き見ようとした隙にタヂカラオ
(手力男)によって岩戸がついに開かれる。
この、天岩戸開きの物語を暗示する神楽や祭りも、日本にはたくさん残されています。
 
(抜粋終わり)
 
↓神々がミーティングを開いたという天野安河原
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すごいところですね。掌がジンジンします。^^
日頃の感謝をお伝えし、身近な方々のことなどをお願い致しました。
 
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そしてようやく、本題である山へと向かいました(笑)
今回は写真をたくさん撮ってきましたけれど、いかがでしょうか?
間伐によって山に光が入っているのがおわかりいただけるのではないでしょうか。
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この山の木は45年生です。広さが25haあるので、全体を五分割し手入れをしています。
そうすると五年に一回間伐をすることになるので、毎年この山に手を入れることができるのです。
下の写真を見てください。中央の光があたった木を境に、左の暗い所がこれから間伐するところ。
右が今回、間伐を終えたところです。全く異なる山に見えるでしょう?(笑)
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この日は天岩戸神社に参拝し、すくすくと成長している木々に囲まれ、なんだか勇気が湧いてきました。
二週間ほどあることで悩んでいたのですが、乗り越えられそうな気持にもなりました。
有り難いことです。今の心境をたとえるならばこんな↓感じかな・・(笑)
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2009年 5月 03日

懐かしいと感じる里山の風景を考える。

「ISIS編集学校」に入門するまでの26日間を二度草稿したのですが巧くいきません。
一度目は「保存」を、二度目は「公開」のアイコンをクリックしたものの、
二度ともエラーとなり、データは消滅してしまいました。凹みます・・・
これは、アップするな、とのメッセージかもしれませんねぇ・・・(笑)
というわけで、また改めてこの話題は書くことにして、お題を変えて気を取り直していきます。^^
 
ショコリンさんから、前回記事にこんなコメントをいただきました。 
 
「懐かしいと感じる風景は植生の分布に関係していますよね。

自分の生まれ育った風景と、同じ植物からなる風景だとものすごく懐かしさを感じてしまいます。

私の場合はブナの木の林ですね。

でも、都会で生まれ育った方にはあてはまらないかな・・・??」
 
たしかに、都会で生まれ育った方ってどうなのでしょう。
私なんて生まれも育ちも緑多き田舎でしたので想像がつきません。
たとえ都会生まれ都会育ちであっても、白川郷の合掌造りの民家群を見て
ノスタルジーを感じてほしいなぁ、と願うばかり。^^
 
それはそうと、
「懐かしいと感じる風景は植生の分布に関係していますよね。」
との冒頭の一文、いいですね~♪
つい最近私も、同じようなことを考えた場所があるのです。
 
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そこは九州国立博物館(以後九国と表示)です。
ガラス一面に、裏山が映り込んでいるのがご覧いただけると思います。
 
じつは松岡正剛氏の独演会があった日、昨年末よりご縁ができた
財団の広崎専務と昼食をご一緒させていただいたときのこと、
この裏山をどのようにすればよいか長考されている、とお聞きしたのでした。
なるほど、太宰府天満宮から九国に歩いてくると、
真っ先に目に入ってくるのが写真の光景となります。
様々な照葉樹を中心とした雑木に竹。さらに植林された杉や檜もあります。
藤の花なども咲いていて、山笑う季節ということもあり、それなりに賑やかで、
「植生の分布」では九州らしい里山と言ってよいのではないか、と思いました。
でも・・・たしかに美しいとまでは感じられない・・・
 
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なぜでしょう。それは「手入れ」がないからではないか、と推測されます。
森は自然のままのほうが美しいんだ、とイメージされている方も多いと思いますが、
決してそうではありません。
この国の手入れの歴史は縄文まで遡ることができるといいます。
 
私は手入れをすることで、九州らしいこの里山が美しくなってほしなぁ、と思ったのでした。
それも、ただ美しくなればいい、というわけではありません。
そこにある木々は天然のものもあれば、植えられたものもあるはずです。
薪炭林を目論んだものの、文明化により放置されたところだってあるかもしれない。
なんてことない雑木林の里山に見えるのは私が無知なだけで、
そこには「人が関わったからこそ」といえる姿があるのだと思います。
どうして今の里山の姿となったのか、その経緯や歴史も合わせて知りたいなぁ、と感じました。
 
そのようなことを探りながら、さらに美しく、
「九州らしい」里山の風景となるように「手入れ」ができないのだろうか・・・
やってみたいテーマですね♪
 
  
この建物は、福岡県出身の大御所建築家である
菊竹清訓築設計事務所(+久米設計)の設計なのだそうです。
設計された菊竹先生のイメージの中には、どんな森の姿があったのでしょう。
それは生まれ育った筑後川下流域、久留米市近郊の里山風景だったのでしょうか。。。

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2009年 4月 28日

「パトリオティズム=愛郷心」と「原」風景

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先週の4月21日(火)、松岡正剛氏の「ISIS編集学校」に入門しました。
というのも、4月18日(土)九州国立博物館で開催された「松岡正剛独演会」を聴講し震撼したからです。
それはまさに私が知りたいと渇望していた話の数々でした。
日本を考えるとき、九州が起点となる。」という言葉に端を発し、高千穂神楽の動画で始まりました。
それからはあっという間の3時間。アニミズム、神話といった歴史の結び目を切り口に、
古代から現代までの日本を民俗学的にひも解いていくような内容でした。
 
これから日本はどこへゆくのかを語る前の・・・
 
明治に神仏が分離され、廃仏毀釈が起こり、
「パトリオティズム=愛郷心」と「ナショナリズム=愛国心」
とが同化されてしまうという悲劇が起こった、
 
という下りには、腹の底から共感いたしました。
「む~らの鎮守のか~みさまの~」で始まる童謡「村祭り」を
「ナショナリズム=愛国心」と解釈するのは納得がいかなかった、
それは、「パトリオティズム=愛郷心」であるとしか思えなかったからです。
 
先月末他界された「もくたろ」の編集長入澤義時さんは、同じようなことを
著書「東北からの思考」の47~48頁でこう述べています。
 
「この風景を眺めて、森さんがいわれたように、僕らは単純に美しいなあとか、
懐かしいなあとかいってしまいます。(中略)
 風景の中でそれぞれが生きているということは、私たちがいうような単純な姿ではない。
 
 確かに、現実の大変さとか、生活の中に入っていったらドロドロしているとか、
それは都市・都会のなかにだってあることですけれど、ただ私たちが見失って
はいけないのは、こういう風景が美しいとか懐かしいとかホッとするとか、
「原」風景ということをどうしてもいいたくなるということ自体なんです。
それは、大切ことだなって、そういう言葉を失った瞬間に根っこを失うというか、
ダメなんですよ。都市・都会を考えるときにだって、それを見失っちゃダメなんです。」
  
生活感がなくてもいい、なんの繋がりがなくてもいい、無責任でもいい、
日本昔話に出てきそうな「日本の原風景」を呼べるような景色を
単純に美しいな、懐かしいな、と言える感性こそが大切なのだと。
そういった共通の美意識の根源に私たちは存在しているのではないか、と感じます。
それを松岡正剛氏は「パトリオティズム=愛郷心」という言葉で表現された。
これには本当に感動しました。
森や山になんとなく抱く正の感情もこの「愛郷心」だと思いたいですね(笑)
 
などなど、知ったようなことを書いていますが、じつは一月前まで
私は松岡正剛氏を存じておりませんでした。
それでも、今回の独演会を聞き、「ISIS編集学校」に入門するまでの26日間は、
おどろくようなシンクロニシティの連続がありました。
次回は、そのあたりを書いてみたいと思います。

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2009年 4月 02日

「もくたろ」編集長 入澤美時氏逝く。

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一昨日(3月31日火曜日)の夕方、信じられない電話が入りました。
先日ご紹介した季刊誌「もくたろ」の編集長である入澤美時さんが急逝されたというのです。
しばらく言葉が出ませんでした。食道癌で闘病中であるとは伺っていましたが、
一週間前に電話でお話ししたばかりだったのですから。
 
「もくたろ」の創刊が3月12日。
その19日後、緊急入院して3日目の3月31日、永眠。
創刊にあたって書かれた、
『もくたろ』創刊と「板倉の住まい」
が絶筆なのかもしれません。
 
この二日間、長考しています。
入澤さんの死を私の中にどう意味付けすればよいか、
そこに意図せざるメッセージがあるのではないか、
入澤さんが書いた文章をいろいろと読みながら
今、頭の中の棚卸をしています。
 
いつまで続くかわからない命。
日一日を生き切り、
編集という仕事に魂を込める。
命と引き替えた「もくたろ」に
氏は何を託したのだろうか。
 
昨年12月、筑後川特集の取材の後、こんな手紙をいただきました。
  
「杉岡様 
 先日は、お身体を壊していたにもかかわらず、
本当に、本当に、ありがとうございました。
 筑後川の取材は、これも本当に楽しい取材でした。
お手数をおかけしました。
 田籠、新川を含め、杉岡さんの関わる周辺・空間には、
日本における新たな「地域というものの胎動」を感じました。
可能性を感じました。それは、これから当方がやらねば
ならない課題とまさに、重なっています。
 
 たまたま、10月の末に、そのことを正面に据えた本を
出版しました。一冊、お送りしますので、ぜひお読みください。
 今後とも、共同・協働してさまざまな展開をしていきたいと
思っております。
 
二〇〇八年一二月二二日
                   入澤美時 」

 
そして、”そのことを正面に据えた本”
東北からの思考」(入澤美時・森繁哉 共著)が同封されていました。
 
明後日、告別式に参ります。
行き帰りの道中は、同著を再度、精読するつもりでいます。
入澤さんから突き付けられた「やらねばならない課題」をこれから
いろんな方と共同・協働し、さまざまな展開をしていきたいと思います。
 
入澤さん、短くも深いお付き合いでしたね。
本当にありがとうございました。
合掌 
 
   
最後に・・・
昨日、入澤さんの遺言ともいえる文章がWEB上にあることを知りました。
http://www.slownet.ne.jp/sns/area/life/reading/interview/200902010942-9275541.html
私のブログを読んでくださるのというも何かのご縁。
お時間があるときにでも、ぜひ一度読んでいただきたいと願います。

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2009年 1月 06日

今年(2009)楽しみなこと。

恭賀新年。

みなさま本年もよろしくお願い申し上げます。

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(中津江村の朝日)

早速ですが、今年は楽しみなことが二つあります。

一つめは「100年住める木の家づくり」を提案する季刊誌「もくたろ」の創刊(3/12)です。

先月(12月)は、創刊号特集の取材のお手伝いをしていました。

筑後川流域の「木の家の文化」を32ページにわたり特集していただくことになったのです。

日頃の家づくりだけでなく、地元の茅葺民家集落の景観保全など

これまで活動してきたことをどのようにご紹介していただけるのでしょう(笑)愉しみです。

「もくたろ」は、「陶磁郎」の入澤美時氏を編集長に、

コンフォルト」の前編集長であり「月刊杉WEB版」の編集長でもある内田みえ氏、

筑波大教授の安藤邦廣氏のお二人が編集委員として参加されます。

リリース後どんな反響があるのか、期待と不安が入り混じったワクワク感を感じます。

ちなみに、文頭の写真は取材の際巡り合った光景(日の出)です。

今年はこの写真のような、真っ暗な杉の森林(もり)に朝日(ひかり)が差し込む、

そんな一年になってほしいと思います。

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(天ケ瀬町の杉皮葺き民家)

 
二つめは、この秋目標に企画されている「森林(もり)の向こう側」です。

私のブログに何度も紹介させていただいている

西日本新聞「食卓の向こう側」取材班、佐藤弘氏とのコラボ企画です。

私の中でのコンセプトは、「もくたろ」とほぼ同じです。

都市生活者だけでなく、日頃、木や森に関わっておられない方々に、

「森林」の問題を身近なものと捉えてもらうにはどんな切り口があるか、

そして、いかに自分の問題として受け取ってもらえるのか、

さらにそれが、問題提起に終始するには留まらず、

そこに「どんな魅力があるのか」、探ってみたいと考えています。

 

二月余り前、佐藤さんより、「食卓の向こう側」講師陣に加わるようご用命いただきました。

リストを拝見すると、吉本哲郎、山下惣一、結城登美雄、竹熊宜孝、、等々凄い先生ばかり。

柄になくびびったのか(笑)未だにプロフィールを書けていませんが、

機が熟し、覚悟を決めた後、取り掛かりたいと思っています。

 

本年は、「思無邪」(おもいよこしまなし)にて精進したいと存じます。

みなさまご指導のほど宜しくお願い申し上げます。

杉岡世邦、拝

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2008年 12月 30日

森林資源の枯渇から和室が生まれた。

今日は思い出で深い、12月4日兵庫日帰り出張での体験(その2)をご紹介します。

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E-ディフェンスで振動実験を見学した後、車で15分ほどのところにある

「箱木家住宅」へと向かいました。

箱木家住宅は、室町時代後期(およそ500年前)に遡ると推定され、

現存する木造住宅の中で最も古いものだと言われています。

このころから、柱を地面の中に埋めて固定する掘立柱ではなく、

束石という石の上に乗せる工法へと変わっていきます。

長く続く戦乱によって木材が不足したため、地面に埋めるより

柱を長持ちさせるための工夫がなされたのです。

また、特徴的なのが土壁です。

べっとりと塗り込められた土壁で囲まれています。

土壁の下地には竹が使われていますし、天井も全て竹です。

木材をできるだけ使わずにすむよう、竹と土が最大限活かされているのです。

そして土壁には、もう一つ大きな意味がありました。

当時のそれは、「高気密高断熱の住まい」であったのです。

それをもたらしたのが森林の枯渇です。

木材の不足は、家だけでなく暮らし方を変化させました。

暖をとる際、炭を使用するようになったのです。

煙が出ずチラチラと長時間燃える炭は、薪より木材を効率的に利用できます。

薪を燃やして暖をとるのに、気密性が高いと煙くて仕方ありませんが

炭火ならば土壁のほうが都合良いわけです。

 
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このように、民家を観察していると、その時代におけるその地域の

資源や環境、そして暮らし方などを垣間見ることができます。

そこが民家ウォッチングの楽しいところです。^^

ちなみに、室町後期は木造住宅におけるエポック・メイキングな時期です。

まずは、銀閣寺に代表される「書院造り」。

これが定着したものを我々は和室と呼んでいます。

それから、束石の上に柱をのせる「民家型工法」。

「茶室」に、そして「数寄屋造り」。

それらが皆、資源が枯渇した時代に生まれたというのは

本当に面白いことだと思います。

(以下、安藤邦廣著「住まいを四寸角で考える」より抜粋)

 
『室町時代末期の戦国時代に戦乱で町は焼かれる。

その復興には木がたくさん使われる。さらに、刀や鉄砲を鉄でつくり、

農機具も鉄に変わったので、たたらで鉄をつくる。鉄をつくるのはたくさんの

薪炭がいる。そのため、西日本の森林は完全に切り尽くされ、資源枯渇をおこしました。

日本の風景は、そのときに一変したのです。禿山があちこちに出現して、

日本の森林は大きな曲がり角を迎えます。

我々は今日、茶室として形式化されたものの美学を、

いわば倹約の美学として受け継いでいる。』

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