アーカイブ 「木挽棟梁の木を活かす知恵」

2009年 7月 10日

杉赤身材の表彰状

今週は嬉しいことがありました。
弊社の工場長が勤続二十年を迎えたので表彰状を贈ったのでした。
永年勤続賞とは言えまだまだ46歳。
これからさらに活躍してもらわねばなりませんが、
20年ひたすらにこの道一本で積み上げてきた努力に感謝しています。
そこで、うちらしく木の表彰状をお贈りすることにいたしました。
 
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この表彰状は杉の赤身材です。
縦300ミリ×横420ミリ(A3サイズ)で厚さは30ミリ。
表面はカンナの超仕上げで、
文字および鳳凰はレーザー彫りの加工が施されています。
 
工場長は想像以上に喜んでくれまして、
「おれが死ぬとき、棺桶にいっしょに入れてもらおう」
と笑いながら言ってくれました。
 
その後、一緒に食事に行ったのですが、
木の仕事に対する思いを夜が更けるまで、熱く熱く語ってくれました。^^
彼らの日々精進の支えがあるからこそ、
私はこの仕事に携わることができ、
多くのお客様に喜んでいただけるのです。
わかっているようでいて改めて、この日そのことを
深く深く思い知らされました。
本当に有り難いことです。感謝の一言です。^^
 
最後に、この表彰状のレーザー加工をしてくれたところをご紹介させていただきます。
福岡市にある(株)チクモクという会社です。
チクモクの加藤社長には、木青会でとてもお世話になっています。
今回のレーザー加工はチクモクの「ウッドパフォーマンスCUCKOO」という
事業部でやってくれます。担当は古賀さんですのでみなさんよろしく!^^
博多木札(はかたきふだ)などの制作販売で、地元では結構知られているんですよ~。^^
 
加藤社長、古賀さん、この度は本当にありがとうございました!
これからの定番となりそうですので、今後ともよろしくお願いいたします。
 
お二人とも「山のぼせ」(博多祇園山笠に狂っている人)ですから、
山笠のクライマックス=追い山の7月15日までは何も手につかないことでしょう(笑)
ちなみに今日は7月10日、山が動き出す「流舁き(ながれがき)」の日ですね。
さぞかし良か汗ば流されたことでしょうね~^^

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2009年 3月 12日

子孫に美林を残す。

今日は祖父の命日です。
以前ご紹介したおじいちゃんの木がある山へ行き、「老松」という日本酒をかけ祈りを捧げて参りました。
また本日は、企画に参加させていただいた「もくたろ」という雑誌の創刊日でもあります。
(木の家にスポットをあてた雑誌で、32頁に亘る「筑後川」特集をぜひご覧いただきたいと思います。)
せっかくのメモリアルな日ですから、「木挽棟梁の木を活かす知恵」というカテゴリーをつくり、
これまで講演などでお話ししてきたことなどを、文章化していこうと思います。

 
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1.子孫に美林を残す
 祖父は自他共に認める山好きな人でした。
幼少の頃の休日は、朝5時頃起床で山に連れて行かれました。
せっかくの休みなのに、早朝に起こされるので、友達と遊べません。
山に行く前の日は、億劫でたまりませんでした。
でもいざ着いてみると、木立に差込む光、冴え冴えとした空気。
鳥の鳴き声に虫の音。小川の水は冷たく甘い。
カサコソと野生動物の気配を感じては、猪、鹿、兎、雉と出会う。
昼飯が近くなれば小枝を探し、鉈でお箸を作り、母のにぎり飯を堪能。
結構楽しい思い出ばかりです。
山遊びがほとんどでしたが、少しは仕事にも貢献しました。
「よ~ぃっ!」と呼ばれると、声のする山師さんの下へ、
水筒や機械油を走って運んだものです。
 
祖父は60歳のころ(私が生まれた時期)から禿山を買い始めたと聞きます。
第二の人生として、そこに植林していくことをライフワークとしたようです。
山が道楽だったのでしょう。
仕事がなくても山に行っては、立木に尺を回し、
太ったな、伸びたな、と目を細め私にこう言いました。
  
「おまえが俺ん歳になりゃあ、こん木も、えらいもんになっちょるざい。」
 
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(朝倉市内にある所有林。50年前、自宅を建てる際に伐採し植林された杉山。
 祖父が若い頃初めて購入した山でもある。)

 
 祖父が「山好き」ならば、父は「木好き」と言えるかもしれません。
父は銘木と呼ばれるような大木を全国から買い集めてきました。
国鉄(当時)の貨物列車でやってきた、天竜や吉野の山からの巨木は雪が被っていました。
家と同じ敷地内にある土場(どば)には、私の背丈を凌ぐ直径をした丸太が並び、
大木がまるでピラミッドのように、うず高く所狭しと積んでありました。
自宅は木組と土壁の和風建築。
そこに使われた木材は、自分の山のスギの木を伐り用立てたといいます。
建てた翌年に植林しているので、その山の木の樹齢と家の年齢はほぼ同じです。
ちょっと古くなってきた家の木と、生き生きとした山の木は不思議な対比です。
まあこのように、どこにいても木に囲まれた幼少期を送りました。
 
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家業がある家の長男に生まれた人間は、継ぐかどうかプレッシャーを受けながら育つものです。
大学を出ると私は、継ごうとはせず印刷会社に就職し5年働きました。
でも木に囲まれた幼少期を送ったからでしょうか。
入社して4年目、印刷物の仕事だけにとどまらず、クライアントに木造建築を提案しました。
企画としての評価は受けたものの、建築まで請負うことはできません。
このころから、建築企画という仕事への思いが日に日に強くなりました。
経済学部出身の私は、生い立ちから縁のある木を武器に、
建築に関わってみたいと思うようになり決断します。
 
28歳のとき、父は継げと言いませんでしたが、会社を辞め跡を継ぎました。
とはいっても、当時は痩せていて体力もなく、木の知識もない。
工場の仕事はきついだけで、自分に向いていないと後悔ばかりしていました。
さらに製材業は斜陽産業です。
私の地域の製材所は最も多いころから5分の1に激減しています。
ビジョンが見いだせないまま、先の見えない不安に押し潰されそうでした。
最近になってようやく、そのころのことが笑って話せます。
それでも、「子孫に美林を残せるか」と聞かれたら… 
 
なかなか肯定的な返事をすることはできません。
山を維持するには、長い年月の管理が必要ですし
経済的にも時間的にも、私の代でさえ難しいと感じているからです。
それでも私は、祖父を真似てみたいと思うようになりました。
木に目を細めた祖父の眼差しを忘れたくないのです。
  
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・40年前の祖父と私

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2009年 1月 10日

「木」に抱く畏敬の念。

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この木は杉の木。長さは8mあります。樹齢は150年ほど。

こんなに長くて太い曲った木をどこに使うのかと疑問を抱く方も多いことでしょう。

今回は、お寺の本堂の隅木(屋根材の一部)というところに使います。

木の上にまたがった少年は、この木の行き先となるお寺のご子息です。

一昨日、ご住職、建築家の先生とご一緒に製材の立ち会いにおこしいただきました。

この仕事に携わりながら、常々感じていることですが・・・

「木」の時に抱く感じ方と、「木材」になったときの感じ方はなぜこうも違うのでしょうか。

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この幅広い板は、破風板(はふいた)といって屋根の妻側に使われます。

見えにくいかもしれませんが、黒い線で書かれたところが最終的な形です。

両端の白い部分を避け、中央の赤いところだけで取れるようにしています。

これは、雨が掛ったり日に当たっても傷みにくくするための工夫です。

しかも、お寺の屋根はとても反っていますので、曲がりを考慮すると

実際に使用されている幅からは想像もつかない広さの板が必要なのです。

たとえばこの板は6m50㎝。

木の元に近い広いところで80センチ、反対側の狭いところでも60センチあります。

破風板の実寸は正味5m。一番広い部分で42センチ。狭いところは24センチです。

さらに屋根の上の方に使われのですから小さく見えます。

結局、建てられてしまってからでは、これほどの迫力を感じることはまずないでしょう。

したがって有難みも薄くなるのではないかと思うのです。

山に立っているとき、手を合わせたり抱きつきたくなるような木を使うということを、

せっかくならば、そのまま受け止め、感謝したいと思うのです。

 

この日の夜に、ご住職からいただいたメールの中にこんな一文がありました。

 

『帰宅しまして、息子と風呂に入りながら、「今日の製材所はどうやった?」と聞きますと、

「すごかった。大きかった。あんな大きい木が新しい本堂に来るっちゃね。」

とうれしげに返答。連れて行ってよかったと心から思いました。』


 
本当にありがたいことです。合掌

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2008年 11月 13日

東大寺で木材のことを想う

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この大きな木はなんでしょう?

 

これは、元禄年間に再々建された東大寺大仏殿(金堂)に使用されていた柱です。

周囲が3.65mとありますから計算上は直径約1.2mあるのでしょうか。

樹種は杉です。

杉を見ると、なぜだか血が騒ぎます。ザワワ・・・^^

 


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東大寺金堂は創建時(753年)、横幅86.1m(現在は57m)もあったと言われています。

でも、竣工後まもなく軒は下がり、乱れ、建物は歪み、支柱が必要な始末となったようです。

1180年、平重衡の南部焼き討ちにより、奈良時代創建時の東大寺は伽藍の大半を失いました。

鎌倉時代、復興の責任者に任ぜられたのが重源上人でした。

復興するには、膨大な経費と共に巨大建築の構造をどうするかという問題がありました。

再建にあたり従来の構造は採用できず、柱や梁などの長特大材の調達は困難だったのです。

金堂は、直径1.5mもの柱が数十本も必要です。


 


重源が復興させた鎌倉時代は日本の歴史の中でも屈指の建築ラッシュの時代です。

奈良時代に建てられた建物が築後約400年を過ぎ、老朽化が進んでいて、

根本的な大修理、または建て替えの時期を迎えていました。

このころ、近畿一円の山から直径1.5mの柱がとれる檜の大材はなくなっていました。

重源は周防国(すおうのくに・現山口県)で巨大な檜を調達します。

構造では、中国の建築技術を取り入れました。

この様式は、金堂(大仏殿)に使われたことから大仏様といわれます。

金堂以外にも南大門や法華堂礼堂などにも採用されています。

しかし、大仏様は豪壮すぎたのか日本には馴染まず、重源が亡くなると急速に衰退します。


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(東大寺南大門の柱と貫↑)

 
ところが、その技術の中で、今日まで使われている技法があります。

それが貫(ぬき)の使用です。

貫とは、柱に穴をあけ、貫き通している部材です。

貫工法の出現により、太い柱や長押(なげし)などは必須の構造材ではなくなりました。

「日本の気候風土に合っている」と表現される、古い木造の建物の多くは貫構造が応用されたいます。

たとえば西日本で見られる古民家の土壁の中には貫があるのです。

ちなみにこの工法は、

同じ木を使った構法でも、現代の在来工法とはまったく異なった力学だそうです。

それを私は、便宜上、「伝統構法」と呼ぶことにしています。


 

建築ラッシュの奈良時代。その400年後に修復された鎌倉時代。

さらに400年後が西暦1600年前後、桃山から江戸時代初期です。

この時期に、現大仏殿(金堂)が再々建されています。

 

それから400年後が2000年ですから、現代となります。

昭和にされた東大寺の大修復は、そんな歴史的なサイクルの中にあるようです。

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